あれは事故だった。今でも私はそう思っている。
10年前の春。20世紀の悪夢を振り払うべく、銀行同士が合併を繰り返していた。
その日は最後の大きな合併手術が行われる手はずだった。
大きいとは言えない待合室には、東京銀行、三菱銀行、UFJ銀行が居た。
そのほかに、同じ階にある歯医者の患者が大勢居た。
私は、その日、たまたま歯医者へ来ていた。ここ数週間、親知らずがキリキリと痛むので、ようやく抜く決心をしたのだった。
「えっ、あそこに居るの、銀行よね」
帽子を深く被っているので分かり辛かったが、目が円マークだった。ほかの人たちは気づいていない様子で、雑誌を読んだり、携帯をいじったりしている。
銀行が座っているのを、私は初めて見た。待合室のViViを手に取ったが、全く内容が頭に入ってこない。雑誌を見るふりをしながら、私は銀行たちを観察することにした。
まず、東京銀行と三菱銀行が呼ばれた。両行とも、兄弟かのように等しくずんぐりむっくりしている。
大きな部屋には不釣り合いな小さな扉を開け、中へ入っていった。扉は彼らの体にはギリギリだった。
次に博士らしき白衣の初老の男性と、そのうしろに背の高い数人が中へ入っていき、扉を閉めた。
鍵のガチャリという音が構内に響き渡る。
「合併中」のランプが光った。
ジジジ、という音が遠くからかすかに聞こえる。しばらくすると、音は止んだ。
電光掲示板がカチャカチャとランダムに文字を出している。そのあと、もったいぶったように一文字ずつ「東京三菱銀行」と表示した。
博士とともに、「東京三菱銀行」が出てきた。全体的にシュッとしていて、こういう感じのモデル見たことある、と思った。
次に、UFJ銀行が呼ばれ、再び小さな扉へ入っていった。
扉が閉まったが、今度は鍵の音がしなかった。
思わず立ち上がっていた。私は、私の欲望に気づいた。銀行の合併をこの目で見たい。この機会を逃したら、たぶん一生見られない。
私は、雑誌を返しに行くふりをして、扉に耳を近づけた。あの、ジジジ、という音が聞こえてきた。
私は扉を少しだけ引いてみた。案の定、鍵はかかっていなかった。あの音とともに、すべてを白く染めそうな光が、扉の隙間から漏れた。
光の先を目で追った。待合室でスポーツ新聞を読んでいたジャージのおっさんが、光の中で体をくねらせていた。光は限定的であったので、周りの人は無関心に、携帯をいじっていた。
私は急いで扉を閉めたが、おっさんは、扉の隙間へ、寒天のようにちゅるんと吸い込まれていった。間に合わなかった。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう」
しばらくの間、目を瞑って、扉を押さえていた。おそるおそる手を離した。扉は動かなかった。
振り返って、待合室を見た。皆一様に下を向いていた。窓際の若い男が一瞬こちらを見て、すぐに携帯の画面に戻っていった。私は、待合室のソファに戻った。心臓の存在感を久しぶりに感じている。吐きそうで、どうにかなってしまいそうだ。
ジジジ、という音が止んだ。電光掲示板がカチャカチャとランダムに文字を出している。そのあと、もったいぶったように一文字ずつ「三菱東京カズヨシUFJ銀行」と表示した。
「大泉様ー。大泉カズヨシ様ー。いらっしゃいませんか。大泉カズヨシ様ー! ええと、それでは、川本綾音様ー」
歯科助手に呼ばれたので、私はフラフラと治療台へ向かった。医者が何か喋っている。もう、なるようにしかなるまい。私は口を大きく開けた。
次の日のニュースは「メガバンク、三菱東京カズヨシUFJ銀行誕生」の話題でもちきりだった。カズヨシ部分に疑問を呈する人は居なかった。コメンテーターも、さも当たり前のようにその銀行名を口にしていた。しかし、私は知っている。その銀行名を聞くたびに、私の奥歯がズキリと痛んだ。幸い、私の口座を持つ銀行は、みずほ銀行に統合された。勝手な話だが、三菱東京カズヨシUFJ銀行に関わらないことで、私は精神の安寧を保つことができた。そうやって、10年が過ぎた。
そして、今、私は、三菱東京カズヨシUFJ銀行の前に立っている。
今年からお世話になっている派遣会社の都合で、給料を受け取るために渋々口座を作ったのだった。
何も恐れることは無い。みんなが使っている普通の銀行だ。普通の。大銀行2つに、おっさんが1人取り込まれたところで、海への一滴じゃないか。おっさん要素はどこにも残っていない。
キャッシュカードをATMに入れる。いらっしゃいませ。スーツ姿の男性と女性、ジャージ姿の男性のキャラクターが深々と頭を下げる。居た。
10年前の春。20世紀の悪夢を振り払うべく、銀行同士が合併を繰り返していた。
その日は最後の大きな合併手術が行われる手はずだった。
大きいとは言えない待合室には、東京銀行、三菱銀行、UFJ銀行が居た。
そのほかに、同じ階にある歯医者の患者が大勢居た。
私は、その日、たまたま歯医者へ来ていた。ここ数週間、親知らずがキリキリと痛むので、ようやく抜く決心をしたのだった。
「えっ、あそこに居るの、銀行よね」
帽子を深く被っているので分かり辛かったが、目が円マークだった。ほかの人たちは気づいていない様子で、雑誌を読んだり、携帯をいじったりしている。
銀行が座っているのを、私は初めて見た。待合室のViViを手に取ったが、全く内容が頭に入ってこない。雑誌を見るふりをしながら、私は銀行たちを観察することにした。
まず、東京銀行と三菱銀行が呼ばれた。両行とも、兄弟かのように等しくずんぐりむっくりしている。
大きな部屋には不釣り合いな小さな扉を開け、中へ入っていった。扉は彼らの体にはギリギリだった。
次に博士らしき白衣の初老の男性と、そのうしろに背の高い数人が中へ入っていき、扉を閉めた。
鍵のガチャリという音が構内に響き渡る。
「合併中」のランプが光った。
ジジジ、という音が遠くからかすかに聞こえる。しばらくすると、音は止んだ。
電光掲示板がカチャカチャとランダムに文字を出している。そのあと、もったいぶったように一文字ずつ「東京三菱銀行」と表示した。
博士とともに、「東京三菱銀行」が出てきた。全体的にシュッとしていて、こういう感じのモデル見たことある、と思った。
次に、UFJ銀行が呼ばれ、再び小さな扉へ入っていった。
扉が閉まったが、今度は鍵の音がしなかった。
思わず立ち上がっていた。私は、私の欲望に気づいた。銀行の合併をこの目で見たい。この機会を逃したら、たぶん一生見られない。
私は、雑誌を返しに行くふりをして、扉に耳を近づけた。あの、ジジジ、という音が聞こえてきた。
私は扉を少しだけ引いてみた。案の定、鍵はかかっていなかった。あの音とともに、すべてを白く染めそうな光が、扉の隙間から漏れた。
光の先を目で追った。待合室でスポーツ新聞を読んでいたジャージのおっさんが、光の中で体をくねらせていた。光は限定的であったので、周りの人は無関心に、携帯をいじっていた。
私は急いで扉を閉めたが、おっさんは、扉の隙間へ、寒天のようにちゅるんと吸い込まれていった。間に合わなかった。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう」
しばらくの間、目を瞑って、扉を押さえていた。おそるおそる手を離した。扉は動かなかった。
振り返って、待合室を見た。皆一様に下を向いていた。窓際の若い男が一瞬こちらを見て、すぐに携帯の画面に戻っていった。私は、待合室のソファに戻った。心臓の存在感を久しぶりに感じている。吐きそうで、どうにかなってしまいそうだ。
ジジジ、という音が止んだ。電光掲示板がカチャカチャとランダムに文字を出している。そのあと、もったいぶったように一文字ずつ「三菱東京カズヨシUFJ銀行」と表示した。
「大泉様ー。大泉カズヨシ様ー。いらっしゃいませんか。大泉カズヨシ様ー! ええと、それでは、川本綾音様ー」
歯科助手に呼ばれたので、私はフラフラと治療台へ向かった。医者が何か喋っている。もう、なるようにしかなるまい。私は口を大きく開けた。
次の日のニュースは「メガバンク、三菱東京カズヨシUFJ銀行誕生」の話題でもちきりだった。カズヨシ部分に疑問を呈する人は居なかった。コメンテーターも、さも当たり前のようにその銀行名を口にしていた。しかし、私は知っている。その銀行名を聞くたびに、私の奥歯がズキリと痛んだ。幸い、私の口座を持つ銀行は、みずほ銀行に統合された。勝手な話だが、三菱東京カズヨシUFJ銀行に関わらないことで、私は精神の安寧を保つことができた。そうやって、10年が過ぎた。
そして、今、私は、三菱東京カズヨシUFJ銀行の前に立っている。
今年からお世話になっている派遣会社の都合で、給料を受け取るために渋々口座を作ったのだった。
何も恐れることは無い。みんなが使っている普通の銀行だ。普通の。大銀行2つに、おっさんが1人取り込まれたところで、海への一滴じゃないか。おっさん要素はどこにも残っていない。
キャッシュカードをATMに入れる。いらっしゃいませ。スーツ姿の男性と女性、ジャージ姿の男性のキャラクターが深々と頭を下げる。居た。