小学校3年くらいかな。
毎年庭に立ててたでっかい鯉のぼりが、今年は出なかった。
「あ、出すのやめよった」って思った。
なんか、毎回やってたことを、急にやらなくなると、こう、ちょっと楽しみにしてた側は「あっ」って思う。
昔関わったお仕事で、「使ってくれたお客さんにお礼状を書いていこう」みたいな案が出た。
いやいや。分かるよ。分かるけど、やる? ずっとやる? やらないでしょ。最初のお客さんが成約したからこう気持ちが高ぶってるんじゃないの? ちゃんと冷静? ずっとやる? できるの?
例えばもしその最初のお客さんが「丁寧なお礼状が来たしこのお店最高だよ〜!」って友達に紹介してくれたとしよう。でも、そこでお礼状書くのやめてたら、先方は「あっ、やめよった」って思うよ。
みたいなことを考えてしまう。
いや、ぶっちゃけね、お客さんを増やすという意味ではやったほうがいいと思うの。もし途中で忙しくなったりしてその特別なお礼をやめたとしても、「なんだーやめちゃったんだー」で済む話だとは思う。損得を考えたら、やったほうが良い。
それはそうなんだけど、最初に気に入ってくれた人は、やめたって知ったら、きっと悲しい。
悲しい思いをさせるならば、持続不可能ならば、最初からやるべきじゃないよ。最初のお客さんを騙してるみたいだもの。
この手の話になると、いつも、俺の頭の中では鯉のぼりの上がってない庭が思い浮かぶ。
一種のトラウマなのかもしれない。
去年あたりにも似たことがあって、ちょっとした手間をかけてお客さんをもてなそう、みたいな案だったんだけど、それがどう考えても持続しなそうなことだったので、悲しい鯉のぼりのことが頭をよぎった。俺は「絶対それずっとやらないっしょ。やめましょうよ」と言った。持続不可能なことを、なぜやろうと思うんだろう。「ああ、ただのパフォーマンスで、その程度だったのか」と、薄っぺらい思いまで全部見抜かれるんだぜ。
でも、その時、鯉のぼりに関して、ちょっと思ったことがあって、あとで母親にメールしてみた。
「鯉のぼりを上げなくなった理由って、もしかして、隣に家が建ったから?」
そういえば、となりの空き地に、民家が建ったのがちょうどその頃だ。支柱が倒れて隣に当たったりしたら大変だ。もしかして、そういう理由があったのか。
そんなことすっかり忘れていて、"自分は不幸の王子様"的な記憶にすりかわっていた。
回避できないない理由で、鯉のぼりをやめた。それはカッコ悪いことだろうか。
隣に家が建つまで、父親は毎年鯉のぼりを出してくれた。もし父親が「隣の空き地はいつか家が建つから、鯉のぼりは最初から諦めるか〜」とか言ってたら、俺は、一生、鯉のぼりを見ることはなかったんだ。
なんか、古い、喉に引っかかってた何かが取れた感じ。
赤ん坊の頃から小学校の途中まで、鯉のぼりは、そこに居れるだけ、めいっぱい居てくれた。
居なくなったことがトラウマになるくらい、俺は、それが、嬉しかったんだ。
持続不可能なことはカッコ悪いことじゃない。
今なら、仕事の問いにも違った考えで臨める気がする。持続不可能でも、できるまでやったらいいじゃん。お礼状、書いたらいいね。途中でやめてしまっても仕方ない、それまでできるだけ、やったらいいんだわ。
母親からメールの返事が来た。
「鯉のぼりが風で絡まって大変だったからやめちゃった 鯉のぼり大変」
あ、そう。
毎年庭に立ててたでっかい鯉のぼりが、今年は出なかった。
「あ、出すのやめよった」って思った。
なんか、毎回やってたことを、急にやらなくなると、こう、ちょっと楽しみにしてた側は「あっ」って思う。
昔関わったお仕事で、「使ってくれたお客さんにお礼状を書いていこう」みたいな案が出た。
いやいや。分かるよ。分かるけど、やる? ずっとやる? やらないでしょ。最初のお客さんが成約したからこう気持ちが高ぶってるんじゃないの? ちゃんと冷静? ずっとやる? できるの?
例えばもしその最初のお客さんが「丁寧なお礼状が来たしこのお店最高だよ〜!」って友達に紹介してくれたとしよう。でも、そこでお礼状書くのやめてたら、先方は「あっ、やめよった」って思うよ。
みたいなことを考えてしまう。
いや、ぶっちゃけね、お客さんを増やすという意味ではやったほうがいいと思うの。もし途中で忙しくなったりしてその特別なお礼をやめたとしても、「なんだーやめちゃったんだー」で済む話だとは思う。損得を考えたら、やったほうが良い。
それはそうなんだけど、最初に気に入ってくれた人は、やめたって知ったら、きっと悲しい。
悲しい思いをさせるならば、持続不可能ならば、最初からやるべきじゃないよ。最初のお客さんを騙してるみたいだもの。
この手の話になると、いつも、俺の頭の中では鯉のぼりの上がってない庭が思い浮かぶ。
一種のトラウマなのかもしれない。
去年あたりにも似たことがあって、ちょっとした手間をかけてお客さんをもてなそう、みたいな案だったんだけど、それがどう考えても持続しなそうなことだったので、悲しい鯉のぼりのことが頭をよぎった。俺は「絶対それずっとやらないっしょ。やめましょうよ」と言った。持続不可能なことを、なぜやろうと思うんだろう。「ああ、ただのパフォーマンスで、その程度だったのか」と、薄っぺらい思いまで全部見抜かれるんだぜ。
でも、その時、鯉のぼりに関して、ちょっと思ったことがあって、あとで母親にメールしてみた。
「鯉のぼりを上げなくなった理由って、もしかして、隣に家が建ったから?」
そういえば、となりの空き地に、民家が建ったのがちょうどその頃だ。支柱が倒れて隣に当たったりしたら大変だ。もしかして、そういう理由があったのか。
そんなことすっかり忘れていて、"自分は不幸の王子様"的な記憶にすりかわっていた。
回避できないない理由で、鯉のぼりをやめた。それはカッコ悪いことだろうか。
隣に家が建つまで、父親は毎年鯉のぼりを出してくれた。もし父親が「隣の空き地はいつか家が建つから、鯉のぼりは最初から諦めるか〜」とか言ってたら、俺は、一生、鯉のぼりを見ることはなかったんだ。
なんか、古い、喉に引っかかってた何かが取れた感じ。
赤ん坊の頃から小学校の途中まで、鯉のぼりは、そこに居れるだけ、めいっぱい居てくれた。
居なくなったことがトラウマになるくらい、俺は、それが、嬉しかったんだ。
持続不可能なことはカッコ悪いことじゃない。
今なら、仕事の問いにも違った考えで臨める気がする。持続不可能でも、できるまでやったらいいじゃん。お礼状、書いたらいいね。途中でやめてしまっても仕方ない、それまでできるだけ、やったらいいんだわ。
母親からメールの返事が来た。
「鯉のぼりが風で絡まって大変だったからやめちゃった 鯉のぼり大変」
あ、そう。